6.愛玩動物
初めて、意思のある人間を口の中に入れたその夜が、佐藤優奈という少女の人生における特異点になったかといえば、そんなことはなく。長期的に見れば、彼女の人格形成の過程で生える、ほんの小さな枝の一つが伸びる方向を、少し変えた程度のものにすぎない。
けれども、その日から彼女が、正式にこの男の飼い主となったということだけは、確かな事実だった。
まず、餌やりやトイレの処理についてだが、これについては、以前のやり方と大きくは変わらない。ケースにゼリーを入れて、ちぎったティッシュをトイレ代わりにしてというスタイルは、ベースとして受け継がれた。
ただ、母親が不在の夜には、人間の食事を与えることもあった。食事を終えた後に、自分の皿に残ったわずかな食べ残しを、台所でこっそりと与えるというやり方で。雑に皿の中に投じるだけで勝手に食べてくれるうえ、米粒の一つでも事足りるから、優奈にとってそれが何か負担になるようなことはなかった。別に心菜には見られても問題はなく、本来隠れて行う必要もないのだが、かといって進んで見せるようなものでもなかった。
……ところで、その心菜は、一週間も経たないうちに小人への執着など忘れて、別の遊びに興味を示すようになっていた。姉優奈に対しても、元のように無邪気な笑顔を見せるようになった。現金さに呆れつつも、優奈にとってはそれが、何よりもの救いだった。
飼育用のクリップケースについては、心菜がまだ梯子を登れないでいるうちは、2段ベッドの上の、自身の枕元に置いておくことに決めていた。ケースが小さい分、以前同じ位置に虫かごを置いていた時のように、寝返りによって意図せず倒してしまうようなこともなかった。
また寛容さと、飼い主としての責任から、優奈は就寝前の時間に、必要とあれば、ペットの小人の射精の世話をするようになっていた。
そのことに都合が良いというのも、あった。
「おいで、とと。」
優奈がそう言うと、「とと」と呼ばれた小人は、お風呂上がりで少しふやけた彼女の手に歩み寄り、その上に乗りあがっる。
「とと」————それが、ペットとして男に与えられた、新しい名前だった。
隣に住んでいたから、とと。某国民的映画作品からとってきた名前だったが、そのまま当てるのは、なんとなく憚られた。
「じゃあさー、名前つけてあげたら?」
妹に預けていた小人を、結局自分が買うことになったと伝えた際に、親友の「うっぴぃ」こと内山陽菜が発した、そんなひとことがきっかけだった。
はじめは優奈も乗り気ではなかった。もともと、名前が必要なほどの愛情など、寄せるつもりもなかったのだから。
けれど。「とと」と呼ぶことで、優奈は、手のひらの中心で発情する小さなペットが、もとは顔を毎朝挨拶を交わしていた人間であったことを、思い出さずに済んでいた。そして男の方でもまた、彼女に「とと」と呼ばれるたびに、少しずつ自身の人間性が剥奪されていくのを感じていた。
このあたりの時期、優奈は一度だけ、以前の方法で男とのコミュニケーションを試みたことがあった。けれど、鳴き声のようにユウナ、ユウナと繰り返すばかりで、既に会話は成り立たなくなっていた。
そんな男に最後に残った人間性とは。性欲の具体性と、そして非合理性だけだった。
やがて、冬が去り。小鳥たちがさえずり、蕾が芽吹きはじめて。
優奈は、6年生に進級した。


