1.はざ間
そこにはぼくが夢にまで見た景色が広がっているはずのに、現実にぼくの目は、一切の色や形を捉えることができなかった。
視覚だけではない。聴覚も、本来この場において何よりも優先されるはずの嗅覚でさえも、物理的に遮断されていた。ただ、触覚や温度の感覚(なんと言うのだろう)だけは働いているらしかった。
横たわるぼくの背中に伝わる、硬質なフローリングの感触と、極寒の冷気。それを中和するかのように、正面から、じんわりと熱を帯びた、やわらかな人の肌が包み込む。
でも、その実ぼくを罰しているのが、後者の方であるというのだから、何を信じれば良いのか分からなくなりそうだった。
ぼくは今、優奈に踏まれていて、つまり彼女の足の裏の温もりと、感触を、半強制的に刷り込まれているということだった。
不運な事故などではなかった。それは、直前に見た彼女の表情から疑いようもなかった。
本来は、22センチの上靴にすっぽりと収まってしまう程度の足。当然ながら今のぼくでは、そんな彼女の足の下から、逃れることも、ほんの少し浮かせることさえも叶わない。けれど加減をされているのか、ぼくの体が小虫のように潰れると言うこともなかった。山のように積み上がった敷布団の下敷きにされた状態とでも例えればいいのだろうか。もちろん一切の身体の自由は効かないし、呼吸だって苦しい。優奈はぼくを一息に踏み潰すのではなく、足裏の下でじわりじわりと衰弱させていくつもりなのかもしれない、などと憶測してしまうほど。
もう何分が過ぎたのだろう。あるいはまだ、数秒も経っていないのか。
己の無力を受け入れ、ぼくは、抗うことをやめた。
そして、考える。
愛する彼女に、不快な虫を見るような目を向けられたこと。
このまま殺められてしまうのだろうか。
あるいはこれからも、心の内では疎まれながら、彼女の庇護のもとで生かされていくのだろうか。
彼女の眼差しの変化に、身に覚えがないといえば、嘘になる。
あの時、身勝手に学校生活にまで踏み入ろうとしたことへの後ろめたさは、僕自身も感じていた。けれどそんなぼくでさえ優奈は赦し、満身創痍の心身を慈愛で包み込んでくれると思い込んでいたのだ。数ヶ月ぶりに生きて戻ってきた家出少年を前にした母親みたいに。
優奈に拾われてからの数日間で、ぼくは何か、彼女にとっての特別な存在になれたような気でいたのかもしれない。あろうことか、少なからずぼくに対して好意を抱いてくれているのではないかとさえ感じていた。優奈がぼくに優しくしてくれたから。それが愛情のないもっと曖昧な優しさであったことにも気づかずに。
優奈はぼくの母親ではないし、ましてや恋人でもない。どうして、こんなにも当たり前のことを、忘れてしまっていたのだろう。
ああ。
悲しかった。優奈にとっての何者にもなれなかったということが。何者でもないからこそ、赦す必要もなかったのだ。
恋人でなくても、ペットでも、奴隷でもいいから、優奈とぼくとを必要と寛容の紐でつなぎとめてくれるだけの関係性が欲しかった。
けれど、こんな世にも奇妙な小さな身体になっても、ついぞぼくは優奈にとって、嫌っても嫌われてもどうだっていい、何人かいる顔見知りの大人のうちの一人、以上の存在になることができなかったのだ。
ぼくはこんなに、ずっと、一途に、君のことを思い続けていたのに。
本当に悲しかった。
悲しい。
嘘なんかじゃない、それなのに。
ああ。
ああ。
あああ……。
さらに時間が経って。
重さにも、息苦しさにも次第に慣れ始めて。
ぼくははじめて、唇の一点に触れる、君の足の裏のぬくもりを意識した。本当は全身で埋もれているはずなのに、水中に沈む時に、唇の滴りを意識することなんてないのに。
君の足の裏とぼくの唇が接触しているという異常性を意識し始めた途端に、ぼくの頭に、ある一つの考えばかりが渦巻くようになった。
許されざる考えだった。
だからぼくは努めて別のことを考えようとしていた。自分の嘘偽りのないはずの悲しい気持ちに向き合うとしていた。けれど、もがけばもがくほど、ぼくは蟻地獄に落ちたみたいに、その許されざる考えの中心部に引き摺り込まれていくようだった。
そして、海の底の貝が、殻の隙間から水管を伸ばすように、おもむろに舌を伸ばして、その先端で————穢れなき彼女の足裏に、触れた。気持ちを鎮めるためだと、誰にともなく言い聞かせて。
はじめ、ぼくは震えながら、なめくじの這うような速度で、小筆で文字を書くときのように、舌先の一点でこわごわとなぞるばかりだった。そんな舐め方では、もちろん、味だって感じられなかった。
次に、舌で触れる面積を少しだけ増やすと、その分、少しだけ彼女の足の裏の風味を感じた。けれど味というにはまだ遠くて、ぼくはかえって、満ち足りなさを感じた。これでは、舐めたうちにも入らないだろうと思った。
だから、3度目には、ぼくは舌全体を使って、舐めるようにして舐めた。今度ははっきりと、酸味とも塩味ともつかない、足の裏の味を感じた。優奈の同級生たちの面前で舐めさせられた、あの指先のある種上品な味とは一線を画していた。
味ばかりではない。優奈の足の裏の、柔らかながら少しざらついた舌触りが、あたたかな温度が、ほのかな湿度が、ぼくの舌を介して、一度に全て流れ込んでくる。そのあまりの情報量にむせ返りながらも、ぼくは気づけば、2度、3度、4度と彼女の足の裏を舐め回していた。舌の動きは加速していき、それにつれて、確かにそこにあったはずの悲しい気持ちが希薄になっていく。優奈は足裏に快楽物質でも塗っていたのかもしれない。ぼくのような愚かな大人を、淫蕩の底に沈めるために……。
やがて、優奈の足の裏がぶるりと震えたのが、ぼくの全身に伝わってくる。彼女がぼくを感じている証左だった。さらに次の瞬間に、全身に加わる重力が強みを増したことで決定的になる。
骨が軋む。酸欠で意識が希薄になっていく。ゼンマイの切れかけた人形のように、ぼくはそれでも、舌だけを動かし続けていた。
ああ優奈。きっと君は足の裏にかゆみを感じて、それが不愉快で、少し力が入ってしまったのだろう。でも、君は分かっているのだろうか。今君が足の下に敷いているのは、道端を慌ただしく這うだけの蟻なんかじゃない。少し前まで君の隣に住んでいて、毎朝スーツ姿で君と挨拶を交わしていた、紛れもない顔見知りの大人だということを。
まして、想像できるだろうか。そんな大人が、君もよく知っているはずの顔が、君の足の下で、君の少し汗ばんだ足の裏を、ありがたがって舐めているということを。ああ、優奈、君は……きみは……………
やがて、ぼくの意識は途切れる。


