3.嫌疑
その日の、お昼休み。木枯らし舞う人気のない校舎裏で、わたしはちさとと顔を突き合わせていた。
そして、悩んだ末————あの人のことを打ち明けた。
「えーっ、あのお兄さんとゆーなって、知り合いだったの!?」
「う、うん……」
色々と面倒なことになりそうなので、ちさとには黙っているつもりだった。でも、あの人がわたしの所に戻ってきてからというもの、ちさとはどこか元気が無さそうに見えたし、あからさまにではないものの、わたしのことを疑う素振りも見せていた。わたしが忘れ物を取りに戻った時から姿を消したというのだから、当然といえば当然かもしれない。
そんなことで関係性に亀裂を生じさせるくらいなら、と思って、わたしはあの人との元々の関係から、ちさとの手に渡る経緯まで、順を追って正直に話すことにしたのだった。
「……なんて、実はそうなんじゃないかとも思ってたけど。だって、あんなゆーなに懐いてたもんね」
「懐いてるって。やめてよ……」
「だってさー?結構ちゃんとしつけたつもりだったのに、わたしそっちのけでゆーなのことばっかり見てるんだもん」
「しつける?」
「そ。デコピンしたり、指でぎゅーってしたり」
ちさとは顔の前で、人差し指と親指で「ぎゅーっ」とする仕草をして見せた。
その間で「しつけ」に苦しむ小さな存在が、わたしには見えた。
「うわー、かわいそ……」
「他にも、足で踏んづけたりね」
「踏んづける、」
何気ない一言だったのだろう。
けれど、わたしはつい、どきりとしてしまう。
目線を下にやると、今度はちさとが、せかせかと近くを這っていた蟻に向かって足を踏み下ろしていた。小さな蟻は、彼女の履く色味の薄いひも靴にすっぽりと覆い隠され、また何の音も発さなかったため、もはや潰れたのかそうでないのか、最初からそこにいたのかどうかすらも分からなくなってしまいそうだった。
————わたしが、あの人を足で踏んでしまった時も、そんな感覚に陥った。
「ねーゆーな。その人って、元々はどういう人だったの?」
直前に踏み潰した蟻のことなんてもう忘れたかのような顔で、ちさとが聞いてきた。
「え……別に、フツーの人。真面目で、優しい大人の人って感じ?」
「そんだけ?」
「んーだって……あんまりよく知らないんだもん。でも、結構わたしのことは気にかけてくれてる感じだったかも」
「どういう風に?」
「朝一緒になった時とか、よく話しかけてくれるんだよね。学校で何流行ってるの?とか、授業はどんなことやってるの?とか。あと、プレゼント買ってくれたり……」
わたしがそう言うと、ちさとは驚いたような顔になる。
「うっそ、ただの隣のおじさんが?」
「うん」
「えー……それってちょっと変じゃない?」
「そうかな……?」
「ちなみに、カノジョとかいるの?」
「分かんない」
質問されるたび、あの人について何も知らないということに気づいていく。何の仕事をしているのかも、どんな趣味を持っているのかも、どんな人が好きなのかも。会話をした回数は、決して少なくないはずなのに。
「ゆーな……もしかしてそいつ、ロリコンなんじゃないの?」
ちさとが、難しい顔で言った。
「ロリコンって?」
「子どもが好きな大人のこと」
「あー子ども好き……」
「いや、子ども好きっていうかあ……つまりそいつって、優奈のことが好きなんじゃないの?恋愛的な意味で」
「え。」
突拍子もないことを言われて、わたしは返答を失ってしまう。
「……いやいや、流石にそれはないでしょ、」
「だって、やっぱりよく考えたら変じゃん。あんな小さくなったら、なんとしてでも戻りたいって思うのがフツーじゃない?でもゆーなが言うには、騒ぎを大きくしたくないとか言って、あんまり戻りたがってない感じなんでしょ?」
「……うん」
「それだって、あのお兄さんがロリコンだとしたら辻褄が合うじゃん。ゆーなが好きだから、ゆーなに飼われていたいんだよ」
確かに、あの人が戻りたがっていないことには、わたしだって違和感を覚えていた。
だけど————わたしに、飼われたい?
スーツを着て、ネクタイをして、毎日社会人として働いているような大人の人が、わたしに?
「……そんなわけない、と、思うけど……。」
想像もつかなかった。
飼いたい、と言われた方が、まだ納得できる気さえする。小さくてかわいい猫を見たら、飼ってみたいと思うのが、普通の人間の感覚なのだから。
心菜だってそう。外で虫を捕まえてきて、1週間で死なせて、懲りずにまた次の虫を捕まえて。呆れはするけれど、子どものすることだからと、わたしはそれを咎めずにいる。でも………もし、自分がそんな風に扱われたらと思うと、ゾッとする。たとえ相手が、かわいい妹であったとしても、耐えられる気がしなかった。
「……もっと言えば、その状況も仕組まれたものだったりしてね」
「どういうこと……?」
「たとえば、自分でわざと小さくなって、ゆーなに見つけてもらうとか」
「……!」
自分から、小さく。
そうだ。わたしはつい先日、あの人が自ら進んで小さくなったという可能性にたどり着いた。でも、その理由までは分からずじまいだった。
まさか、本当に————。
「何か心当たりがある感じ?」
「分かんない、けど…………」
戻りたがっていなかったのも。
自分から、虫かごの中に入りたがったのも。
心菜が口に含めた飴を、一心不乱に舐めていたのも。
あるいは————わたしの靴の中に、入ろうとしたのだって。
わだかまりとして残っていた疑問が、全部、それで片付いてしまう。
「だとしたらやばいね、そいつ。さっさと警察に引き渡しちゃえば?それかいっそのこと、トイレにでも流しちゃうか」
「何もそこまで……」
「だって、キモくない?考えてもみなよ。そんな下心丸出しのオトコに、私生活の隅から隅まで観察されてるわけでしょ?やってることストーカーと変わんないじゃん……」
「…………」
否定できない。それが嫌だったからこそ、わたしはあの人を、目の届かない場所にしまい込んでしまったのだから。
「放っておいたら、そのうち寝ている間に、服の中に潜り込んで来たりしてさぁ。実はもう、胸とか触られてたりして……」
「………!やだ、やめてよ……」
ゾワゾワと、背筋が粟立つ。
想像してしまったから。あの顔で、あの身体で、わたしの体を虫のように這い回る姿を。
ちょうどこんな気分を、わたしは彼が戻ってきたあの夜にも味わった。
あるはずのないその姿を足元に見つけて、まず、恐怖の感情が込み上げてきた。捨てても捨てても戻ってくる、呪いの人形を前にした時のように。
でも、本当に虫ならばまだ良かった。本当に呪いの人形ならまだ良かった。
それが生身の人間であるということを、わたしは知りすぎていた。
だからこそ、恐怖と、もう半分の感情は————「気持ち悪い」だった。
「……どうしよう。ほんとに「ロリコン」だったら……」
「気になるんなら、聞いてみればいいじゃん」
「え……」
ちさとが、他人事だからと、面白がるようにわたしに言う。
「お兄さんは、ロリコンなんですか?……って」


