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4話(終)

ブラスバンドの朝練が始まってからというもの、朝早い時間の、閑散とした正門を通ることがほとんどだったから、8時前のその場所の賑わいぶりに、優奈は少し面を食らっていた。

千代沢小学校の入学式は、昨日行われた。始業式も同日に行われたが、時間が違ったために、二人で一緒になることはなかった。

今日は在校生にとっては、新年度最初の授業日。新一年生にとっては、入学直後のオリエンテーションの日である。

人混みの中にちらほら、不安そうに、あるいは興味津々と言った感じで、敷地内をきょろきょろと見回している姿が見える。そのほとんどが、母親と手を繋いで歩いている。

本来新一年生は、最初の一週間はあんな風に、親と一緒に登下校することになっていた。けれど二人の母幸恵は、仕事上朝の付き添いが難しく、代わりに姉である優奈がその役目を任されていた。彼女は彼女で、本来は朝練に出ているはずだったのだが、その一週間は特別に、顧問の先生から欠席が認められていた。ちなみに下校の際は、通常通り母が迎えに来ることになっていた。

様々な学年の児童でごった返す中、優奈は見知った顔を見つけた。 向こうも気づいた様子で、人混みをかき分けて、優奈の方に歩み寄ってくる。  

「ゆーなおはよ〜!……わーっ、ここちゃんも一緒だ〜」 

 

6歳児の目線に合わせて腰をかがめたその少女は、優奈の親友の内山陽菜だった。 

彼女とは今年も一緒のクラスである。残念ながらもう一人の親友、菅谷知里とはクラスが分かれてしまったが、ブラスバンドの練習に戻れば、顔を合わせる機会も増えるだろうと、優奈はそれほど気にしていなかった。 

 

「あっ、うっぴーだー!」 

「はーい、うっぴぃお姉ちゃんだよ〜」 

 

人見知りしがちな心菜も、このように、陽菜にはすっかり打ち解けている様子。 

何度も家に遊びに来ていたためではあっただが、同時に、彼女のあけすけな気質によるところも大きかった。 

 

「今日はねぇねと一緒に来たの〜?」 

「うん!」 

「そっか〜。どお?はじめての学校」 

「ひろいっ」 

「ねー、広いよねー!じゃあさじゃあさ、お昼の時間、お姉ちゃんたちと一緒に探検しない?」 

「するー!」 

「よかったね、ここ」 

 

周りを見れば、自分以外の一年生はみんな、お母さんと一緒。 

自分だけが、みんなと違っている。 

心菜にはそれが分かっていたが、寂しくはなかった。 

自分の手を握ってくれる、少し大きな2つの手を、彼女はおさな心に、誇らしく思った。 

 

 

 

————ところで。優奈は学校にいる間、あの「とと」と名づけたペットをどうしていたか。 

定位置の枕元に置きっぱなしにしておけば、いつかのように、布団を剥がしにきた母親に見つかる恐れがある。かといって、机の引き出しのような、安易に妹の手に触れられる場所に置いておくこともできない。 

この2つの問題を解決するのに、最も手っ取り早い方法は、学校に持っていくこと。ポケットの中に入れたり、筆箱の中にしまったり、やり方はいくらでも考えられるだろう。けれど、それにもリスクがある。うっかり誰かに見られてしまったり、どこかで落としてしまったり。じっさい彼女は一度、校内で落としてしまったそのペットが、偶然にも親友に拾われ、1ヶ月の間戻ってこなかったという経験をしているのだ。 

たが優奈は、そういったリスクを排除しつつ、男を学校に持ち出す方法を知っていた。 

誰に見られることもない、紛失する可能性も限りなく低い。そんな隠し場所を、彼女は知っていた。 

何か小さなものを隠すには、格好の場所だった。 

……ひとつの大きな倫理的・衛生的欠陥に目を瞑れば、の話ではあったが。 

 

 

——見て見てっ、おさかなさんいっぱいっ。 

 

——すごいでしょ〜、しかもこのおさかなさんたちね、なんと、100年も前からこの池に住んでるんだってー。 

 

——ええーっ。 

 

——ここ気をつけなよー、このお姉ちゃん嘘しか言わないんだから。 

 

 

(うあ、優奈) 

 

壁を2枚隔てた向こう側の世界に住まう、少女たちの、談笑の声。暗闇の中、男はひとり、その声を聞いていた。 

それも束の間の話で、男の世界に再び、激しい混沌が訪れる。 

突如として、揺れ出した世界。前も、後ろも、上も、下も。全てが混ざり合い、無に帰す。地を離れた体は、ピンポン玉のようにあちこちにぶつけられ、新しい痛みが、絶えず生まれては、また新しい痛みで書き換えられていく。 

そんな、自由意志が失われた世界で。男は自身が果たして実存を保っているのかどうかすらも、分からなくなっていった。混沌を組織する思念体のひとつであるかのような感覚に陥った。 

そんな混沌の中で、ただ一つ保たれていた秩序があった。 

におい。ほんのりと酸っぱくて、目の奥が締まるような臭い。 

どこに流れても変わらないこの臭いだけが、この世界と、混沌の中の男とを繋ぎ止めていた。 

 

「懐かしいよねーっ。わたしが一年生だった頃思い出しちゃう」 

 

優奈は喋りながら、一歩、また一歩、歩みを進める。その間も絶えず、混沌の嵐が男を撹乱し続ける。恐らくは、下駄箱の前で靴を履き替え、階段を登り、新しい教室に足を踏み入れて、自席に腰を下ろすその時まで。 

 

————自らの履く、靴下の中。それこそが、日中の男の隠し場所に、優奈が選んだ場所だった。 

 

優奈が男を靴下に入れて登校するのは、今日に始まったことではない。 

ペットとしての名を与えて、少し経った頃から、すでに行い始めていたことだった。 

はじめこそ、逡巡もあった。 

合理性と、性処理の一環という名目によって実行に踏み切ったものの、はしたなくて、非常識で、非人道的な行為だという意識を、善良な少女はやはり捨てきれなかった。授業中もずっと、足の指の間で小さな生き物がもぞもぞと動く感触がして、肉体的にも心理的にも落ち着かなかった。 

 

けれど今となっては、自身の靴下の中に意思のある小人を投じることに、彼女は何の葛藤も、後ろめたさも感じはしない。左胸に安全ピンで名札を留めるのと、何ら変わらない行為だった。 

 

「いい?ここちゃん。靴はここで履き替えて、ちゃんと下駄箱に入れるんだからね、わかった?」 

「はーい」 

 

右も左も分からぬ妹に、目線を合わせて、付きっきりで学校生活のいろはを教えてあげている間も。優奈はその靴下の中に、男を閉じ込めていて。 

 

 

「……で、みなさんは6年生になったわけですから、最高学年としての自覚を持って、メリハリのある行動を……」 

 

新しい担任の先生の話を、ぼんやりと聞き流している時も。優奈は無意識理に、靴下の中の男を、足の指で揉みしだいていて。 

 

 

「佐藤優奈です、趣味は絵を描いたり、本を読んだりすることです。よろしくお願いしますっ」 

 

クラスメイトたちの前に立って、はきはきと自己紹介をしている時でさえ。優奈の上履きの内側では、1人の人間が、その素足の臭いに、温度に、悶え狂っていて。 

けれど教室の中には、当然ながら誰一人として、それに気づく者などいなかった。