8.収束
縮小治療装置の実用化が公表されたのは、8月の頭頃だった。
元々公的機関や民間組織などで合法的にかつ限定的な用途で使用されていた人体縮小装置が可逆的であったのに対して、件の縮小機の効用は不可逆なものと言われていた。だからこそ問題にされてきたのだが、研究開発チームのたゆまぬ努力によって、ついに克服されたのである。
とはいえ、民間の医療機関への導入には時間がかかると言われており、ワクチンのように私的に受療することはできず、自治体の特設窓口からの申請と、被縮小者の身柄の引き渡しを必要とした。
とにかく————社会に未曾有の混迷を招いた縮小禍は、その日を境に、ひとまずは収束に向かっていくこととなる。
夏休み、とある日の夕過ぎ。そのニュースを始めて耳にした優奈は、考える。
自分が、どうするべきなのか。
あのプールの時間の出来事で、肝を冷やす体験をしたはずだった。にも関わらず————あの日を皮切りに、少しずつ自分の行為がエスカレートしてきているのを、手段から徐々に目的へと変わりつつあるのを、彼女は自覚していた。
たとえばこの日、優奈は妹を連れて図書館に出かけていた。夏休みの間、2人で留守番をする日は、そうすることでエアコン代を浮かせていた。
近場に歩いていく時、彼女はよく、ビーチサンダルを履いた。そしてこの日に限っては、傷もないのに、足の裏にバンドエイドを貼り付けていた。
夏休みの図書館には、普段より多くの人が出入りする。
8人掛けの横に長いテーブルが、2×2で4つ並んだ読書スペース。かろうじて確保できたそのうちの2席に、優奈は心菜と並んで座る。
周りを見れば、色んな人たちが座っている。受験勉強に励む男子高校生。同じくらいの歳の女の子。パソコンを開いている大人の人。
そして隣には、まだ小学生になったばかりの、妹が座っている。
湧き上がる衝動を、ハードカバーを開きながら、優奈は静かに処理していく。机の下、ビーチサンダルから息を殺すように足を抜いて、バンドエイドを貼った母指球の辺りを、ゆっくり、カーペットの床に、擦り付ける。すると、バンドエイド越しのカーペットの毛足と、足裏の肉の間で、こりこりと、小さな異物が、存在を主張しはじめる……。
再び周りを窺う。誰もが真剣で誰もが、自分のことなど、気にしてもいない。
しかし、足元で行われる倒錯した遊びと、彼らとを隔てているのは、厚さ30ミリの天板たった一枚にすぎない。
そのことを思うほどに、優奈は、熱に浮かされていく。
ついには、足の裏を跳ね橋のように起こして、椅子の外に向けてしまう。
席の周りには、当たり前のように人が往来している。天板から、薄いバンドエイド一枚へ。遮るものは、あまりに、心許なく。危険な橋をわたろうとしていることを自覚しながら、文字通りその足を踏みとどめておくことができなかった。
しかし優奈は気づいていなかった。足の裏に貼りつけたバンドエイドが、緊張と興奮の入り混じった汗で、少し緩んでいたことに。
足と床が、直角を描こうとしていたその時。
ぽとり。
バンドエイドの中の異物が、支えを失い、床に、外に落ちた。
「っ!……」
声が出ると同時に、優奈は慌てて、異物を足で押さえる。肘に力が入り、ごん、と机を小さく揺らす。
その瞬間、周囲の視線が揃って、彼女の方を向く。
男の人が舌打ちする音が聞こえる。
冷や汗が、肌を伝う。
恐る恐る、背後を振り返る。そこにあるのは、いつもと変わらぬ図書館の景色。行き交う人々は、誰も、彼女の方を向いたりなどしない。
————そう、誰も、自分を見ていない。まるで、見てはいけないものを、見てしまった直後のように。不安定な精神状態は、そんな自縄自縛的な解釈へと、彼女を導く。
見られた。見られた?見られた、……
机に置かれた本に目を落としながら、優奈は15分もの間茫然自失として、そのページをめくることもできずにいた。隣で妹が心配そうに見ていたのにも、足に敷いたままの虫の訴えにも、彼女は、気づかなかった……。


