<<『優奈』エピソード一覧に戻る

4話(終)

はじめ、その声を聞いた瞬間。

優奈がついに、平気で人の命を弄ぶような、倫理に悖る行いに目覚めてしまったものと誤解し、戦慄を抱いた。

けれど、ぼくは今頃になって気づかされる。

はじめから、優奈が一度として、その縮小機が人体にも有効であると認識している、という表明をしていないということに。つまり、今彼女が行おうとしている行為には、一定の正当性が与えられる。

何も知らない少女が、なんの変哲もない縮小機を使用しようとしている————ただ、それだけの話なのだから。表向きには。  

その正当な行為を止められるのは、ひとり、その縮小機の正体を知る者のみ。 

このぼくのはずだった。 

だが、思い出せないはずがない。その場しのぎの嘘によって、愚かにも自ら、その資格を手放してしまったということを。 

ここで彼女を止めると言うことは————自らの嘘を、罪を、洗いざらい吐き出すという行為に等しかった。 

 

このまま、無知を装った彼女に、極小に縮められるか。 

あるいは、嘘を認め、自らの罪を全て白状するか。 

ただ、どちらを選んでも————その先に待つのは、実質の死。 

 

(あ……う……い、いや……) 

 

ぼくは、すがる想いで優奈を仰ぐ。 

その人差し指が、レンズの裏側の液晶に向かって伸びる映像が、スローモーションで再生されている。 

ためらいもせず、彼女は、本気でぼくを————。 

 

 

(…………!いっ、いやだ………いやだっ!!!) 

 

 

ぼくは、選択を放棄して、とにかく走った。 

逃げて、どうなるというのだろう。どこか物陰に隠れて、時間が経って、そうすれば優奈が許してくれると思っていたのだろうか? 

いや、それよりも前に。 

 

 

 

「————どうして逃げるんですか?」 

 

 

 

手近な、鉛筆削りの裏側にでも隠れようと思って、ぼくは走りながら、瞬きもせず、ひたすらその一点ばかりを見据えていた。 

右足をついた時点では、確かにその景色が見えていたのだ。 

けれど、左足を踏み出した時には————既にぼくの視界は、彼女の手のひらの、匂い立つような朱色に、埋め尽くされていた。 

 

(あ、あ……) 

 

どうして、逃げられると思ったんだろう。 

目の前に聳える手のひらの壁が、これでもかというほどに、ぼくの無力を突きつけてくる。 

本来それは、まだ吊り革も掴めないであろう、幼い少女の手のひらのはずなのに。 

 

どうして逃げるんですか? 

そう言った彼女の口調は存外、穏やかだった。微笑さえ浮かべていたのかもしれない。 

だからこそこの手のひらに、ぼくを絶対に逃すまいとするむき出しの意思を見たような気がして、空恐ろしかった。 

 

ひとしきり、ぼくに己の無力をつきつけると、退路を塞いだまま、優奈の手のひらは第二の行動に移り始めた。動作自体は緩慢だったが、淀みはなく————その人差し指と親指で、ぼくの一切の自由を奪った。 

 

そのまま、全身が持ち上がる。つま先に力を入れて、地上にしがみつこうとしたが、恐ろしいほどに無意味だった。必死に足をばたつかせても、2度とそれが地表を掻くことはなかった。 

ぼくを攫った彼女の右手はそれから、ゆっくりと宙を昇っていく。絶叫の瞬間へと誘うアトラクションのように。 

向かう先に、あのおぞましい機械の、無表情で、無機質な円形のレンズが構えているのが見える。 

今、優奈がボタンを押せば、ぼくは、ぼくは。 

 

「ああ、ああああああッ!!!はなっ、離して!!優奈!!!なんで!!!」 

 

盲滅法に暴れる。 

実験台に拘束され、顎を引いて前を見れば、マッドサイエンティストがメスの切先を光らせてゆっくりと歩いてくる。そんなスプラッタ映画のワンシーンのような切迫感を、ぼくは今味わわされている。 

 

 

「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよー。だってこんなフツーの縮小機が、人間に効くわけないじゃないですか」 

 

 

無論、優奈のその言葉は、額面通りに、ぼくを安心させるためのものではない。牽制以外の、何物でもない。 

無知と正義を大義名分にした、彼女の残酷さが。 

物腰の柔らかさに反した、拘束の頑強さが。 

ぼくにはたまらなく恐ろしい。 

 

 

「でも、もしほんとに効いちゃったら、ダニくらいになっちゃいますよねー、きっと。」 

 

 

ダニ。 

そんな語が、彼女の口から発せられるのを聞いた時、凍りつく思いがした。 

考えないようにしていた末路。それを、ずけずけと突きつけてくる。以前の彼女であれば、少なくともぼくの前では、そんな物言いはしないはずだった。 

もう気を使う必要もないと感じているのではないか————これから、ダニになる人間に対して。 

 

 

「わ、何これ。現在の身長、1.7センチ、体重73ミリグラム……あはは、こんなの出てくるんだ」 

 

 

はずむような彼女の声が、その内容が、ぼくの精神をぐちゃぐちゃにかき乱す。 

絶望の瞬間は、もうすぐそこまで来ている。彼女が他人事のようにあっけらかんと読み上げるのは、あの日あの時ぼくの目にも流れた、人生のエンドロール。 

もう、どうしようもないのか。ああ、何か逃れる術は、何か、なにか————。 

 

 

「……あれ。なんだろ、急に……」 

 

 

半ば望みを捨てたように、静かに目を閉じたその直後。 

ぼくは、優奈の声色が変わるのを聞いた。 

はじめ、彼女の目の前で何が起こったのかも、その原因も、理解していなかった。 

だが存外すぐに、ぼくは思い出したのである。 

逃れることも、命乞いをすることも叶わないぼくが、唯一行える抵抗があったことを。 

あの縮小機が、何を介して、人体の情報を取得していたのかを。————それは、”目”。 

 

 

「………。」 

 

 

沈黙が訪れる。頬を冷や汗が伝っていく感触がある。 

おおかた、人体データの表示が中断されたというところだろう。 

このまま、機械の故障だと、彼女が諦めてくれればいい。息を殺して、そう祈り続けていた

けれど。 

 

 

「すみません。目を開けてもらってもいいですか?」 

 

 

所詮は、その場しのぎにすぎなかった。 

 

 

(……!…………) 

 

 

優奈の命令に、ぼくの血は凍りつく。 

目を閉じて、ものの数秒だというのに、もうそのからくりに気づいてしまったというのか。こんな状況でなければ、彼女の利口さに感心するところだっただろう。だが今は、その利口さがぼくを脅かそうとしている。 

 

どくん、どくん、どくん————。 

 

優奈が今、どんな顔をして待っているのか知ることができない。命令を受けた今も、ぼくは目を閉じ続けているのだから。沈黙が長引けば長引くほどに、彼女に逆らったという事実がより確かな、ごまかしの効かないものとなっていく。 

それでも、従うわけにはいかなかった。たとえそれが最大の証明になったとしても、目を閉じているしかなかった。こうしていれば、いつか相手の気が変わるのではないかという、ありもしない希望にすがって。それは、借金取りに追われる債務者が、扉の向こうの怒号に震えながら、薄暗い台所で籠城を決め込む様子によく似ていた。 

 

そして、10秒ほど経った頃だろうか。 

 

————はぁ。 

優奈が、ため息をつくのが聞こえた。 

ため息? 

ぼくにはそれが、何か彼女が心の中で打ったピリオドのように聞こえて————寸前、悪寒が走った。 

 

 

「……聞こえてます?」 

 

 

苛立ちを乗せた声。 

感情の矛先は————無論、ぼくだった。 

 

ぎゅ。 

 

「…………!?いっ、あ……、……!!」 

締め付けを増した、彼女の人差し指と、親指。そのはざ間で、ぼくは悲鳴すら満足に絞り出せずにいた。 

だが真実それは、喉を裂くほどの叫声に値する痛苦だった。 

 

(っ————ああああああああッッ!!!!!) 

 

根比べにもならなかった。開幕1秒も経たずして、あまりの強圧に、目を見開いていた。 

ぱき、ぱき。体の内側から、そんな音が鳴っているのが分かる。かろうじて保たれてきた、ぼくと優奈との間の均衡が、崩れていく音だった。 

 

客観的に見れば、優奈はどこにでもいる、普通の小学生の女子だった。ぼくを監禁したあのちさととかいう少女のように、弱者への差別に娯楽を見出したりなどしない。けれど、人並みの偏見と、反発性の感情を持ち合わせていたし、何より、利他に徹せられるほどの大人の余裕は、まだ備わっていなかった。 

そんな少女が。かつては威光を放ちながら、今となっては惨めな虫けらにしか思えなくなってしまった、大人の男を。指先の力だけで屈服させられると、学習してしまったら? 

 

 

「………ッか、は、………!!」 

 

 

ぼくを殺そうとするでもなく、しかし、そこにはもはや寸分の躊躇いもない。 

小さな大人のしつけ方。

そんな知識は当然、小学校の授業では教えてくれないだろう。

しかしそういった知識こそ————彼女のような優等生にとっては、時に劇薬となる。 

 

 

「あ、戻った。」 

 

 

優奈がそう告げると、圧迫から解放される。 

およそ寸前まで虐待行為を働いていた人間のものとは思えないほどに、その口調はけろりとしていた。 

 

 

「ええっと……縮小後の推定値、0.0センチ……」 

 

息も絶え絶えで、くたりと垂れたこうべを上げることすらままならない。目線の先で、白磁のような優奈の鎖骨が、無表情を貫いている。その下では、着崩された薄水色のパーカーの紐がゆらゆらと揺れ、左胸に付けた名札がくすんだ艶を浮かべている。 

しかし、それらもやがて、無機質なひとつ眼の機械の背後に隠される。 

その眼の中央に映し出されていたのは、絶望に満ちたぼくの表情。 

 

 

「……じゃあ、押しますね」 

 

 

ぼくが、自らに縮小機を使用した日の記憶は、はっきりと残っている。 

ボタンを押す、たったそれだけの動作に30分も費やしたのは、後にも先にもあの時だけだった。 

ぼくは自分が思うほどに厭世的ではなかったらしい。直前になって、全てを失うのが、どうしようもなく恐ろしくなった。過呼吸が治らない。壁に手をついていないと、立っていることすらできない。呼吸、発汗、体温上昇、嘔吐。あらゆる生理現象は感情と密に繋がっているが、恐怖には特にそれが顕著だった。 

 

今この時も、あの日の再現のように、ぼくの体は極限の恐怖を表していた。優奈の指がスローモーションで1ミリ目標に近づくごとに、ぼくの心臓は10回脈打った。 

ただ、ぼくの意思など介在する余地もないということだけが、あの時と違っていた。 

受け入れられないまま、未練を残したまま、ボタン一つで、ぼくは世界から消されていく。 

 

(……っ。やめて。やめて。やめて……) 

 

そして————僕の命乞いもむなしく、レンズの裏側で、スイッチが押されたのが分かった。 

視界の右上で、それまで緑色にともっていたランプが、赤色に点滅し始めたのが目に入ったから。 

 

(ああ。あ、あぁ……) 

 

ピッ。ピッ。ピッ————。 

 

この電子音は、忘れるはずがない。 

おそらく人体縮小の際にのみ鳴るのであろう、不穏なピッチとテンポの電子音を。 

全身から、力が、熱が失われていくのを感じる。 

スイッチは、押されてしまったのだ。 

もう。止めることは叶わない。 

 

 

ピッ、ピッ、ピッ、ピ、ピ、ピ、ピ、 

 

 

焦燥感を煽るように、電子音のテンポが尻上がりに加速していく。 

ランプの点滅も加速していく。 

ぼくにはそれが、迫り来る死神の足音に等しく聞こえる。 

 

(あ。あ。あ………!) 

 

ピ、ピ、ピピピピピピピピピピ————————。 

 

機械のボルテージが最高潮に達しようとしている。 

まるで、まだ見ぬ次元の縮小への悦びを隠しきれないといった様子で。 

音は次第に、遠くなっていく。視界が薄ぼけていく。 

 

 

————ピーーー………。 

 

 

消えゆく意識が最後に捉えたのは、電子音の収束だった。 

それが意味するところは、もはや言葉にするまでもない。 

 

かくして、ぼくは、10000分の1の存在となった。