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4話(終)

ブラスバンドの朝練から戻ると、5年2組の教室内は今朝のあのニュースで話題騒然————なんてことはなかった。

窓際で他愛もないことで駄弁っていたり、机に集まって消しゴムをぶつけ合ったり、端の席で学級文庫の本を読んでいたり。要するに、いつもと変わらない光景。

ため息をついて、着席する。のんきだなあ、なんて思う反面、わたしはどこかで気が休まる思いもしていた。学校に来てまであの件について考えたくはなかったから。

それからすぐに、始業のチャイムが鳴り、皆一様に慌てたように自分の席に着いていく。 そこまではやはり、いつも通りの運びだった。

けれど。

おかしい。どういうわけか、チャイムから5分が経ち、にぎわいの余韻が去ってもまだ、担任の後藤先生が現れない。

正確に言えば、8時のチャイムから8時10分までは読書タイムとなっていて、朝の会はその後なのだけれど、いつもであれば8時きっかりに後藤先生が教室に入ってくるはずだった。 

一部の子たち、とりわけ読書なんかに興味のない男子たちは、先生が遅れているのをいいことに、チャイムによって途切らされたおしゃべりを再開しだしていた。そして、8時10分の本鈴が鳴っても、教室前の扉が開かれることはなかった。 

 

 

「先生、遅いねー……」 

 

最近、席替えで隣の席になった坂井風香ふうかちゃんが耳打ちしてくる。 

ミディアムヘアに、ドット模様の入った紺色のカチューシャがよく似合う子だった。 

 

「ね。どうしたんだろ……」 

 

後藤先生は、接しやすい人柄で生徒にも比較的好かれてはいるけれど、根が真面目な人という感じで、自他共に対して時間には厳しかった。そんな先生が、一体なぜ、今日に限って————。 

 

(………、) 

 

今朝のニュースの内容が、その時、頭をよぎった。 

 

(……うそ。まさか) 

 

思い浮かんだ、ひとつの可能性。 

教室のざわつきは次第に大きくなっていき、席を立つものさえ出始めている。きっと、わたしと同じ懸念を抱いている子なんて、その中には誰一人としていないのだと思う。 

わたしははじめ、彼らの呑気さに呆れ、羨ましいとすら感じていた。けれど、本当に呑気だったのはわたしの方なのかもしれない。 

その効力を目の当たりにしておきながら————先生。友達。家族。いつ身近な人間が被害に遭い、姿を消してもおかしくないということを、理解できていなかったのだから。 

 

目眩がする。大きくなっているはずの喧騒が、わたしの耳には、次第に遠ざかっていくように感じられる。 

人間が小さくなるということがどういうことかを、わたしは知っている。 

もし本当に先生が、誰かの手によって無差別に小さくされ、そのまま野に放り出されでもしていたら、十中八九、もう、助からない。 

探し出して保護しようにも、わたしには彼が今どの地にいるのかさえ分からない。 

せめて、この学校の中で縮んでしまったというのであれば、まだ探しようもあるのだけれど、それも考えづらい。だって、それだとつまり先生や職員さんの中に犯人がいるということになるのだ。わたしの知る限りでは、そんな危険で、かつ迂闊な人物はこの学校の中にはいないはずだった。 

だから、そう。たとえば、自らこの敷地内で縮んだのでもなければ————。 

 

 

(………、) 

 

そこまで考えて、息を飲む。 

 

後藤先生は、男の先生だ。歳は30代前半くらいで、独身で、細身で、そう、ちょうど、あの人のような背格好の————。 

 

だから。あるいは、と、わたしは考えてしまったのだ。 

 

 

 

「何やってんの?笑」 

 

声がかかり、はっと現実に引き戻される。 

振り向くと、隣の席で風香ちゃんが苦笑していた。 

 

「え。あーいや、ちょっと……ね。あはは」 

 

出し抜けに上履きを脱いで、その中身を目を細めて覗きだしたら、誰だって不思議に思うだろう。わたしの要領を得ない返事に、風香ちゃんは、ふうん?と首を傾げていた。 

……恥ずかしい。弁明したい気持ちでいっぱいだ。けれど多分、世の中には自分から小さくなって女子の靴に入りたがる大人がいる、なんて話を彼女にしても、やっぱり首を傾げられるだけだろう。 

言葉にするだけでも、馬鹿馬鹿しく思えてくる。……もちろん、わたしの上履きの片方には、後藤先生は入っていなかったし、もう片方は……確認する気が起きなかった。 

 

 

「おいっ、先生きた、先生!」 

 

直後に、見張りに出ていたお調子者の男子が、狼でも出たみたいに教室中に呼びかけていた。 

見事なもので、ガラガラガラ、と入り口の戸が開けられるまでのものの数秒の間に、立ち歩いていた子たちも皆それぞれの席に収まっていた。 

 

「やーごめんごめん、遅くなった!」 

 

教壇に急ぎ足を叩きつけながら、後藤先生が現れる。教卓に乱雑に手荷物を下ろすと、空いた手の甲で額の汗を拭っていた。 

 

「先生遅刻じゃーん!」 

 

どこかから、茶化すような声が飛ぶ。先生はそれに苦笑を浮かべて応じていた。 

 

「いやー急に電車が止まっちゃって……って、そんなこと話してる時間もないね。号令お願いできる?ええと、日直は……」 

 

「はーい、わたしです。……きりーつ。きをつけー。れい」 

 

おはよぉございまぁす。 

 

「はい、おはようございます!じゃあね、早速出席を……」 

 

————。 

停滞していた教室の中の時間が、わたしを置いてけぼりにして、急速に流れ出したような錯覚に、わたしは陥っていた。 

そんな状況でも、皆に合わせて朝の挨拶と着席だけは済ませられるのだから、条件反射というのは大したものだと思う。 

 

……とにかく、後藤先生は五体満足で教卓の後ろに立っていて、それを見るにわたしの心配は杞憂に終わったということらしい。 

 

 

「山井壮太くん」 

「はい元気です」 

 

「渡辺蓮くん」 

「ハイ元気です!」 

 

「足立果穂さん」 

「はい、ちょっと喉が痛いです」 

 

 

出席には、一人一人の性格がよく表れるなと、わたしは時折思うことがある。 

競うように声を張り上げる者もいれば、反対に素っ気ない者もいるし、手をぴんと伸ばすようにあげる者もいれば、肘の高さまでの者もいる。 

またそれは子どもたちだけでなく、出席を取る先生にも言えることだった。 

後藤先生は一人一人に微笑みかけるようにして出席を取る。人のいい笑顔とはああいうのを指して言うのだろうな、と思う。 

 

 

「佐藤優奈さん」 

 

そして、わたしの名が呼ばれる。 

先生と目が合う。にこりと微笑む。いつもなら何気なく発せていた返事が、その一瞬、詰まりかける。胸の内に、やましさが渦巻く。 

わたしは、一時でも考えてしまったのだ。この人が、先生が————児童の履く上履きに身を投じたがるような、「ロリコン」である可能性を。目があった瞬間に、そのことを自覚させられた。 

 

 

「——はい、元気です。」 

 

 

つとめて、平静を装い、返事をする。 

そんなわたしの演技に、おそらく不自然なところはなかったのだと思う。先生の笑顔は滞りなく、次の子へと移り去っていた。 

わたしはひとり、胸を撫で下ろす。 

 

けれど、先生方をはじめとする大人の人たちや、あるいはまた同級生の男子たちを、もう以前と同じようには見られないだろうという予感が、わたしの中にはあった。 

何も知らなかった頃には、もう、戻れないのだ。