「ただいまぁー」
帰宅。
薄暗い玄関で、長靴を脱ぎ、マフラーを外し、結局使うことのなかった傘を傘立てに戻す。
幅の狭い廊下が伸びる先、居間の方から、テレビの音が聞こえて来る。心菜がアニメを見ているのだろう。顔を出して、「ただいま」と一声かけてから、わたしは子供部屋に歩いていった。
いつもなら、友達と遊ぶ予定のない日は、帰ってすぐに机に向かうようにしているのだけど。
新学期最初の授業日だったこともあって、今日は宿題が何も出ていなかった。
何をしようかと考え、わたしは読みかけの「りぼん」の今月号があったのを思い出し、本棚に寝かせておいたそれを取り出した。
しおり(これは何ヶ月前かの号に付録として付いてきたものだ)を挟んでいたページを開くと、今月から新連載となる作品の扉ページだった。どうやら過去にも連載を持っていた漫画家さんの復帰作らしいけれど、去年からこの雑誌を買い始めたばかりだから、知らなかった。
床上に敷いたクッションに腰を下ろして、わたしはその作品を読み始める。
……
主人公の女の子は、高校1年生。夢見がちな性格で、背が低いのをほんの少しコンプレックスに感じているらしい。
そんな彼女が、恋に落ちる。「狂犬」と悪名高い、3年の先輩に。他校の不良生徒に絡まれているところを、助けてもらったことがきっかけだった。
“女は行動力”がモットーの彼女。狂犬先輩の学年とクラスを知ると、早速放課後に呼び出して、告白する。
「つまんねえことで呼び出してんじゃねぇよクソチビ」
あえなく撃沈。唾を吐き捨てて踵を返す狂犬先輩。恋心は一転、(何なのよアイツ!)とご立腹の主人公。もう顔も見たくないとさえ思っていた。
けれど、そんな狂犬先輩がある日、突如縮小機を使われて、小さくなってしまう。その狂犬ぶり故に、彼は色んな者から恨みを買っていた。その中の1人による犯行だった。
そしてなんやかんやあって、主人公が小さくなった狂犬先輩を見つけて、てんやわんやあって、そのままお世話することになって————。
……どこかで見たような話だ。細部は、似ても似つかないけれど。
わたしは、次の作品を扉を見ることもないまま、雑誌を閉じて、床に置いた。
「……なんなの。」
ため息混じりに、思わずつぶやいていた。
あの人のことなんか、別に思い出したくもないのに。今日は、そんなことばかり。
天井をしばらくぼんやりと仰いだ後、わたしは、視線を横に移す。
机の下の、キャスター付きの引き出しの、上から2番目。
その中に、今もあの人はひとり、閉じ込められている。
(…………)
雑誌の続きを読む気にもなれず。
思い出した手前、わたしはその様子を見てみることにした。
思えば、姿を見るのは随分久しぶりのことかもしれない。
最近はもう、心菜も一人で小人遊びをするようになっていたから。
……ちゃんと、お世話はしてあげてるのだろうか。
引き出しを開けて、その奥にある「こびとさんのおうち」というラベルの貼られたケースを取り出して、蓋を外す。
けれど。
(あれ。いない……)
そこにあるはずの小人の姿が、見当たらない。
トイレがわりのティッシュや、腐りかけのゼリーの切れ端を取り除いても、その姿は出てこない。
心菜が持ち出しているのだろうか?でもあの時は、居間でアニメを見ていて、あの人と遊んでいるような様子もないように見えた。
……ぱた。
ケースの蓋を閉じて、引き出しにしまう。
何をそんなに気にすることがあるのだろう。居間に向かいながら、自分でも思う。
薄暗い廊下を抜けて、ドアを開けると————心菜の見ていたアニメの音声が、わたしを出迎える。
「ねえここちゃん。こびとさん知ってる?」
わたしの声に、心菜が振り向く。
「しははい……」
「え?」
何を言っているのか、うまく聞き取れなかった。
けれど、わたしが聞き返しても、心菜はふるふると首を横に振るだけで、何も答えようとしない。……というよりも、口を開こうとしない、と言う感じだった。
何か食べているのだろうか?
気になって心菜の前のローテーブルに目をやったものの、そこにはお菓子の箱も、飴の包み紙もなかった。
「ここちゃん、何食べてるの?」
わたしは笑顔で、心菜に尋ねる。
その笑顔は、心菜に向けたという言うよりも、わたし自身の心を落ち着けるためのものだったかもしれない。
ふるふる。
そんなわたしに対して、心菜はやっぱり、何も言わずに首を振るだけ。
「……お口開けてごらん?」
だんだんと、笑顔が保てなくなっていく感覚があった。
心菜の目は、わたしの顔と、その後ろのテレビとを、おろおろと行ったり来たりしていた。
……きっと、今がいい場面で、本当は見逃したくなかったのかもしれない。まだ幼い彼女は、その素直な気持ちを捨てることも、優先することもできないのだろう。
けれど、わたしが一歩前に詰め寄ると、その目は逃げ場を失ったように動きを止めた。
「いいから」
思わず、語気が強くなっていた。
ぴく、と目の前の小さな肩が跳ねる。
目の下に涙を溜めながら、観念したように、心菜は口を開ける。
んあ。
小さな乳歯に囲まれた、真新しいピンク色の舌。
その上に————まるで罠にかかったゴキブリのように、貼り付いて身動きも取れずにいる、あの人の姿があった。
ああ、やっぱり————。
向かい合ったまま、わたしと心菜の間に言葉はなく、アニメのキャラクターの気合いの入ったセリフだけが、その場に虚しく流れていた。
「……ここ。駄目でしょこびとさん食べちゃ。吐いて」
やっとの思いで絞り出した言葉。
わたしの差し出した手の上に、心菜の口から、あの人が吐き出された。
妹とはいえ、他人の唾が手に触れる感覚というのは、落ち着かない。
————まして、それが全身にとあれば、一体どんな感覚なのか。わたしには、想像もつかない。
「……なんでこんなことしたの?」
わたしの問いに、心菜は慌てたように答える。
「だって、こびとさん口に入れてあげるとね、よろこぶんだよ、ほんとだよ……!」
心菜の言い訳を聞いていると、手のひらに、何かこそばゆい感触を覚えた。
目をやれば、あの人がボウフラのように身悶えている。何度か、見覚えのある動き。
そして、眉根を寄せて注視してみると。あの人の小さな腕が、体のある一点に伸びて、上下運動を繰り返しているのが分かる。
さらに観察を続けていると、やがてその一点から————小さな、本当に小さな飛沫が、2、3度上がったのが見えた。
(……これって、)
わたしはそれを、今まで、苦悶のサインだと思っていた。
けれど、違う。学校の授業で、言葉で教えられただけだけど。どうしてか、わたしには分かった。
わたしの手の上で、わたしの妹の唾にまみれながら————この人は、「射精」をしているんだ、って。
「……ねえ。こんなこと、いつもやってたの?」
さっきの心菜の口ぶりには、今日以外にも何度か、あの人を口に入れたことがあるような含みがあった。
今日だって、たまたまわたしが吐かせたから良かった。でも、もしわたしが気づいていなければ、きっと今頃、あの人は、まだ幼い心菜の口の中で————。
「うん……」
心菜が頷く。きっと彼女は、何も知らない。そしてまた、何も知るべきではないのだとも思う。
————でも、そうなると今度は、心菜ちゃんが危ないね。
学校での、ちさとの言葉を思い出して、頭を抱える。
心菜に飼育を任せたのは、あの人がどんな危ない目に遭わされようと、もはやどうでも良くなったからだった。
心菜の身の危険なんて、考えもしてなかった。
そして、それを知ってしまった以上————もう、見過ごしておくこともできない。
「……ここ、ごめん。やっぱりこびとさん、わたしが飼うことにするから」


