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4話(終)

誰にでも等しく夜は訪れる。

温かい家庭を持つ者にも。窓辺で物思いに耽るロマンチストにも。電灯に群がる羽虫にも。すべてを失った者にも。

気候。金。空腹。性愛。いつの時代も絶対の平等こそが、不平等を生んできたのである。

寒空の下。傷んだ木材の軋む音が、虚しく響く。

身体の震えを誤魔化すために寝返りを繰り返す。そんな徒労を、夜風が嗤う。

一体、何をしているのだろう。

屋外での生活は、昨日今日に始まったことではない。満足なものでなくとも、雨風を凌げる寝ぐらくらいは、とうの昔に見つけていた。鼻水も凍るような寒さを堪えてまで、こんな場所に居座る必要なんて、何もないはずなのに。

ざっ、ざっ。 

 

遠くで、乾いた土を踏みしめる音が聞こえた。 

誰の足音か。こんな時間に、公園に遊びに来る子どももいないだろう。 

犬の散歩か、酔っぱらいか、老人の徘徊か。いずれにせよ、彼には関係のないことだった。 

 

ざっ、ざっ。 

 

足音が近づく。 

自分の存在に、気づいていないのだろうか。街灯がぽつりと灯っているとはいえ、この時間では無理もないだろう。そうでないとすれば、物好きな人間もいるものだ。彼は思った。 

立ち寄った公園に浮浪者が居着いていたら、見て見ぬふりをして引き返すのが普通の行動だ。 

昼下がりの、あの子どもたちのように。 

 

ざっ、ざっ。 

 

止まらない足音。もう、すぐそこまで寄っている。 

音を立てないようにして、彼は新聞紙の下に身を隠す。 

向こうが気づいていないのなら、せめて驚かせないように潜んでいようと言う、彼なりの気遣いだった。 

あるいは、怖かったのかもしれない。 

誰もが目を向けることすら避けたがるような身分にまで落ちることで、ある種自己を守ってもいた彼には、迷いなく踏み込んでくるその足音が、怖かったのかもしれない。 

 

ざっ。 

 

足音が、止まる。 

誰かの気配が、すぐそこにあるのを感じる。 

どうしてか、騒ぎ出す胸。彼は自分の中にまだ血が流れていることを知った。 

たまたまだ。たまたま近くで足が止まっただけ。 

そう自分に言い聞かせて、彼はその何者かが通り去るのを待った。 

早まって顔を出したって、化け物に出会したみたいな反応を買うのがオチだ。 

そうなんだろう? 

けれど。足が動き出す音は、いつまでも聞こえてこない。 

違う。 

開けるな。 

何を期待している。 

だって、だって、そんなはずは。 

 

はやる胸を抑えながら、新聞紙の隙間を少し開けて、外を覗く。 

 

靴が、見えた。 

見覚えのある、マジックテープの靴が。 

 

「——さん、ですよね?」 

 

声が、聞こえた。 

もう誰も覚えていないはずの自分の名を呼ぶ、聞き覚えのある声が。 

 

(……嘘だ、) 

 

新聞紙の蓑を震える手で剥がし、体を起こす。 

そこには、もう二度と会うことはないと思っていた、優奈の姿があった。 

 

「やっぱり。あーよかったぁ……人違いだったらどうしようって思ってました」 

 

半年ぶり————いや。等身大の彼女とこうして向き合うのは、1年半ぶりにもなるのだろうか。 

思春期の子どもは、一年でおよそ10センチ身長を伸ばすと言う。 

ご多分に漏れず、上下をスウェットに包んだ、いかにも部屋着のまま出てきたと言う格好の上からでも分かるくらいには————優奈の身体も、小学5年生から、6年生のそれへと成長していた。 

 

「……あの、よかったらこれ、食べてください」 

 

そう言って、差し出された優奈の手の上には、ラップに包まれたおにぎりが乗せられていた。 

言われるがままに、男はそれを受け取る。ラップを剥がすと、ほのかな湯気と白米の香りが、ほわり、と冷気の中を舞った。その時にはじめて、寒気に押しやられていた、自らの空腹を自覚した。 

男はむしゃむしゃとそのおにぎりにかぶりついた。 

んまい。 

優しい塩気が、冷え切った身体と心に沁みていくようだった。 

優奈が、自分のために握ってくれたおにぎり。枯れたと思っていた涙が、いつしか目に滲んでいた。 

 

その涙に気づいたから、というわけではない。夜の闇の中で、彼女の目には映っていなかったのだから。 

 

「……すみません。わたしのせいで——さんがこんな風になってたなんて、知らなくて……」 

 

優奈が、俯きがちにそんな言葉を口にする。 

確かに、男がこのような身分に成り果てたのも、優奈に捨てられてからの人間の生がままならなかったからであった。 

心身共に健康状態に難があり。 

会話どころか、発語も満足にできない。 

そのくせ、突然明後日の方を向いて、誰かも分からない女の名前を、うわごとのように繰り返し始める。 

そんな狂人を、非正規ですら雇いたがる所などどこにもなく。 

縮小の前からろくに連絡もせず、失踪後の住居の後始末で迷惑をかけた実家には勘当を言い渡され。 

住所が無いために生活保護の申請も叶わない。 

 

優奈は彼のそんな現状に、多少の責任を感じていた。 

想像ができなかったわけではない。縮小解除の申請を行った時点で、彼はとっくに人間性を喪失していたのだから。それでも、身体を戻せばいずれ失われた人間性も取り戻すだろうという、甘い展望を立ててしまっていた。 

もちろん、そのことで彼女が負うべき責任など本来ないはずである。あるとしてもそれは、おにぎり一つでおつりが来る程度のものにすぎない。 

 

 

いいんだ、それより君が元気そうでよかった。 

 

まとまりのない発語ではあったが、男がそんなことを伝えようとしているのが、優奈にも分かった。痛々しさに、遊ばせていた拳をきゅっと閉じた。 

 

最近はどう?何かあった? 

 

男は、やはりまとまりのない発語で、優奈の話を聞きたがった。自分自身の空っぽの器を、彼女の物語で満たしたかった。 

 

「えーっと、そうですね……」 

 

ゆっくりと、優奈は語り始める。 

自己開示に不慣れな少女の辿々しい語り口ではあったが、男はその話に、穏やかな心地で耳を傾けていた。 

 

修学旅行で、日光に行ったこと。 

「戦場ヶ原を歩いたり、滝を見たり……あっあと、班の子が途中で熱出したりしちゃって大変でした」 

 

学校で、卒業式の練習が始まったこと。 

「卒業式で歌う合唱曲が、『With You Smile』っていうんですけど、それがめっちゃいい曲で。」 

 

母の再婚が決まったこと。 

「実は前々から話は進んでたみたいなんですけど、わたしの卒業のタイミングに、お母さんたちが合わせてくれたんです。妹も、低学年のうちの方がタイミング的にはいいかなって」 

 

再婚相手が、母と同い年の、事故で妻を失ったシングルファザーであるということ。 

「すごく、いい人でした。お子さんは、わたしの二つ下の男の子で、人見知りしちゃうみたいなんですけど、ちょっとずつ仲良くなっていければいいなって」 

 

そして———— 

「それもあって、卒業したら、引っ越すんです」 

 

えっ……? 

 

「まあ県内なので、そんなに大袈裟でもないんですけど、」 

 

もう会えないの? 

 

そう言うと、優奈は困ったようにただ笑った。 

はい、と答えれば男を傷つけてしまうのが分かっていた。 

けれど、連絡の手段もあり、何より会う理由がある友人たちとは違って、もう彼と会うことはないだろうというのが彼女の本心だった。 

 

「だから、挨拶しておきたくて……」 

 

そんな。 

 

 

優奈のいない世界。 

生きてみると、そこは、全てが陳腐で、無味乾燥な世界だった。 

見たいと思った時に、優奈の顔がない。 

聞きたいと思った時に、優奈の声がない、 

触れたいと思った時に、優奈の肌がない。 

嗅ぎたいと思った時に、優奈の臭いがない。 

ただ延々と、優奈の喪失を感じているだけの生活。 

半年でさえ、もう、限界だった。 

それが、24時間365日、30年、40年、50年。 

 

 

……嫌だ。 

 

「……すみません。」 

 

 

嫌だよ。優奈。 

 

「……そんなこと、言われたって、」 

 

 

ねえ、住所おしえて。 

 

「……。い、嫌ですっ」 

 

 

あー、そうだ、いいこと考えた。 

 

「……あ、あのっわたし。もう、このへんで……」 

 

 

行かせなきゃ、いいんだ。 

 

「……!や、やだ……こないで……っ!!」 

 

 

 

ざさっ、ざさっ。 

震える足で、後ずさる子鹿の足音。にじり寄る狼の足音と、荒い鼻息。 

そして。 

 

 

「っ——、————、!」 

 

 

哀れな子鹿は、飢えた獣の爪によって、なす術なく捕らえられた。