(え、あ…………え?)
10秒と少し経ってから、解放された。けれど、理解が追いつかず、男はその場で、ただ狼狽えていることしかできなかった。
————その、まだ状況が理解できていないという素振りすら、ちさとにとっては至高のスパイスだった。
とん……とん……とん。
人差し指が、一定のリズムで、机を鳴らしはじめる。
とん……とん……とん。
恐々と見上げると、少女はやはり頬杖をついたまま、薄い笑みを崩さない。
とん……とん……とん。
寸分の狂いもなく、ゆっくりと刻まれていくリズム。
時計の針の音にも似たそれが、何を意味しているのか、想像できなかったわけじゃない。
でも、そんなはずはないと、残された希望に縋っていた。
……とん。
拍子が止み。
男は再び、人差し指の圧に溺れる。
10秒と少し経って、また、解放される。
けほっ。おほっ。
えずきが収まって、息が落ち着くまで10秒。
とん……とん……とん……。
無慈悲に始まる、次のループへのカウントダウン。
なに、なんで、こんな。
男はまた、何もできずに狼狽えるだけ。
とん……とん……とん……。
その間も、カウントは進んでいく。
ああ、まだ分かってないんだこの人。
鈍い大人。ちさとの中で、この素性も知らぬ男に対する評価が、固まった瞬間でもあった。
……とん。
時間切れ。
ちさとは、指先で小虫をいたぶる。
ちょうど指の腹のあたりが、鳴き声で微かに振動して、気持ちいい。
ついやりすぎてしまいそうになるが、適当なタイミングで解放する。
男が息を整える。
とん……とん……とん。
「やめて、もう、やめて、死んじゃう、お願い……」
男は、カウントダウンを刻む手の、親指に働きかける。
こそばゆかったが、カウントが0になるまでは、自由に泳がせておくつもりだった。
その方が、無様に足掻く様を、じっくりと堪能できるから。
……とん。
時間切れ。
助けを求めた親指に潰される。
再び、解放。
とん……とん……とん……。
次のカウントダウンが始まる。
「いやだ、いやだ、いやだ……!!」
理不尽に耐えかねて、男は逃げ始める。
けれど、ちさとの目から見たそれは、芋虫のような速度で、もはやカウントダウンを止めるまでもなかった。
……とん。
時間切れ。
必死の逃走も虚しく、男は人差し指で潰される。
「……あ、が………っ!!」
今度は、少し力を込めて。時間も長めに。
2度と、逃げようなどと思えなくするために。
解放される。
とん……とん……とん……。
そしてまた、カウントダウンが始まって。
……とん。
潰されて。
とん……とん……とん……。
カウントダウンが始まって。
……とん。
潰されて。
何度も何度も、同じことが繰り返されて。
そして。
とん……とん……とん……。
もう、何も分からなくなった男は。
「ごめんなさい、許してください、ごめんなさい、お願いです……」
土下座して、許しを請うことしかできなくなっていた。
屈辱でもなかった。
一回り歳の離れた子どもに土下座させられるというこの状況すら俯瞰できないほどに、恐怖によって脳を支配されていたのだから。
とん……とん……とん……。
とん……とん……とん……。
とん……。
「はい、よくできました」
にこり、と微笑むちさと。
地に伏せていた頭に、温かいものが触れる。
それは、つい今まで恐怖の対象だったはずの、彼女の人差し指だった。
初めからちさとの目的は、こんな風に男を、自分から屈服させることだった。
それが済めば、痛めつける理由などなかったのである。
(あ、あ……)
確かにあの時、頭を撫でてもらいたいと願った。
でもこんな、わけのわからない、DV彼氏の抱擁みたいに、心の関節がガタガタに外れてしまうような愛撫を、望んでいたわけではなかった。


