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3話

1.菅谷知里

才能にも、環境にも恵まれているという自覚があった。だから、今の生活にこれといった不満もなかった。強いて挙げるとすれば、どれだけ優れていようとも、子どもであるうちは真っ当に評価されないし、自分よりも低脳な大人の言うことにも従わなければならない、というところだった。出る杭は打たれる、という教訓も、彼女はよく理解していた。

AM5:45。

朝起きたら、まず顔を洗う。仮に冬であっても必ず冷たい水で洗う。そしてパジャマを脱ぐよりも早く、100マス計算を解く。それが、菅谷知里すがやちさとのルーティンだった。

AM6:00。

すっきりとした頭で、リビングへと向かう。キッチンでは、既に母が朝食を作ってくれていた。60インチのテレビに映る天気予報を見ながら、先生方のご指導を受けないような、通学用の服に着替える。

AM6:15。

遅れて父が起きてくる。ここのところ仕事が忙しいらしく、疲れの取り切れていない顔をしている。

母が食卓に皿を並べたら、家族3人揃って手を合わせる。

「今日も遅くなりそうなの?」母が父に尋ねる。

「ああ、多分ね……」

「憂鬱そうだね。なんかやらかしたの?」

カップスープを覚ましながら、ちさとが問う。

「おいおい、父さんに向かってそんなこと言うもんじゃないぞ」

「あはは、ってことはやっぱりやらかしたんだ」

やれやれ、と父は天を仰ぐ。そして、少し間を空けてから話しだした。

「父さんが、T社で働いてるのは知ってるだろう?」

「うん」

T社といえば、誰もが知るような大手電機メーカーで、父は新卒から20年近くそこに勤めているらしい。

「今は縮小デバイスを扱ってる部署にいるんだけど、ちょっとそこで問題があってね……」

「なんなの?もったいぶって……」

父の話ぶりもさることながら、ちさとはむしろ先ほどから母が話に入ってきていないことの方が気になった。何か事前の示し合わせがあったみたいに。

「実は、最近縮小デバイスの非正規品が出回ってるらしいんだ」

「非正規品?」

「うん。それが聞くところによると、人体の縮小まで可能という代物らしくてね」

「マジ?やばいじゃん」

父によると、その非正規品とやらは、S社が販売する縮小デバイスに紛れて流通しているらしい。同社は関連製品の販売を詳細を伏せて中止するよう呼びかけていて、同一ロットのものを最優先に回収が進められているという。

「でも、非正規が混じってるのはあくまでS社の商品で、T社とは関係ないんでしょ?むしろ、ライバルが勝手に潰れてくれそうで良かったじゃん」

「それがそう単純なことでもないんだ。この事実が表に出れば、縮小デバイスそのものに対するイメージダウンは避けられないし、現時点でも既に各所から何件も問い合わせが来てる。それに、うちでも同じような不手際が起こらないとも限らないから、管理体制を1から見直さなくちゃいけない……」

「そっかー、大変だね……」

「僕が大変な分にはいいんだ。ごめんな、朝からこんな話して。本当は外部に漏らしちゃいけないんだけど、父さんは知里が事故に巻き込まれたりしないか心配なんだ。くれぐれも縮小機を見たら注意するようにしてほしい」

「わかった」

「それと、さっきも言った通り社外秘だから、このことは学校のみんなには言っちゃだめだよ。もちろん、先生にも」

「うん。わかってる、パパ。」

AM6:50。

早朝の灰色の通学路を歩きながら、ちさとは考える。

もし本当に父の話す非正規品が世に出回っていて、更にそれが、悪人の手に渡ってしまったら、社会は間違いなく大混乱に陥ってしまう。

厄介なのが、証拠が一切残らないというところ。現にちさとも、学校への持ち込みを禁止されている物を小さくして持っていくことがあるが、一度として担任に見つかったことはない。

もし、自分が小さくされてしまったら。

これは考えるのも恐ろしいことだった。今、自分の足元を這い回っている蟻が、ハイエナよりも獰猛なクリーチャーと化すということ。そして何よりも恐るべきは、それをいつでも踏み潰してしまえる、現在の自分自身。

では、もし。蟻ほどに小さくなってしまった人間を、自分が発見したとしたら?

「おはよーちさと」

「おはー」

ちさとの通う、広野市立千代沢小学校。

その校門の前で、向かいの方向から歩いてきた女子と、挨拶を交わす。

佐藤優奈。ちさとの友達の1人だった。

「金曜の朝練さー、ゆうちゃん先輩ちょっと機嫌悪げだったよね」

「あーあれねー、私あのあと他の先輩に聞いたんだけど、なんか失恋が原因みたいよ」

「そうなんだ。ゆうちゃん先輩かわいいのになー……」

「でもちょっとプライド高そうだよね」

「わかるー」

優奈は、家庭の事情もあってか、精神的に大人びていた。それでいて、周りの子どもたちの会話のノリやテンポにも合わせることができる子だった。ちさとは彼女のそういうところを気に入っていたし、私立の小学校に通っていたら出会うことのできなかった友達だとも思っていた。

もし、小さくなったのが、仲のいいクラスメイトだったとしたら。

もちろん、丁重に保護してあげなければならないと思う。

嫌いな子だったら……それでも、やっぱり助けてあげなきゃいけない。

だって、身近な人が突然行方不明になったら、多少なりともその騒ぎに自分も巻き込まれることになる。その中で、自分がボロを出さないとも限らない。だから、大きさの違いに物を言わせて、報復する……っていうのは、少なくとも無いかな。

————なら、どこの誰かも分からない人の場合は?

AM7:00

昇降口で上履きに履き替えて、ちさとたちは今日も、ブラスバンドの朝練習に向かった。