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3話

4.無知

それからのことを話そう。

あの後、始業時間が近づくにつれて、下駄箱前の児童の数は少なくなっていき、男はついに絶体絶命の窮地を脱することができた。奇跡と言って良かった。

そして。男は振り落とされそうになりながら、ある女子児童の上履きのしっぽに必死に掴まって、優奈のいる教室を目指した。そうでもしなければ、上の階に行くことなど叶わないからである。

平地を歩いているときは、前後に揺られ。階段を登っている時は、上下に揺られ。嵐の海をイカダで渡っていくのにも等しい過酷な体験であった。

ただ、その間ずっと男が案じていたのは、航海上の安全などではなく、この姿を誰かに見られはしないか、ということだった。

小学生の上履きにしがみついていた、見知らぬ大人。第一印象として、これほど醜悪なものがあるだろうか?そういう第一印象をもって、この虫のように小さな生き物を見つけ、手に取ったとき、多感な時期の子どもたちがどういう行動を取るのか、想像するだけで恐ろしかった。

どうにか教室に着くと、男は上履きを離れ、机の下を駆け回り、優奈の足を探した。つまり、「佐藤」と油性ペンで書かれた上履きを、虱潰しに探したのである。授業中は児童たちの移動がなく、捜索が捗った。そして10人目あたりで、お目当ての「5-4 佐藤」と書かれた上履きを見つけることができた。しかしすぐにぬか喜びであったことに気づく。それは優奈のものでないどころか、女子のものですらなかったのである。腹いせに男はそのつま先に蹴りを入れた。すると、本当にただの偶然ではあったのだが、すぐに1000000倍のお返しがきて、男は激痛に悶えながら自身の軽率な行動を反省することとなった。

またその時に男は、優奈の所属が5年2組であったことを思い出した。知らなかったわけではもちろんなかったが、普段、男が見てきたのは学校の外の優奈であったから、クラスを意識するということはほとんどなかった。

無駄な時間を費やしてしまった。碁盤目状に並んだ机の下を縦断するように、男はそそくさと出口を目指し歩いていった。

雪わたり。みやざわけんじ、ぶん。こばやしとしや、え。ゆきがすこしこおって、だいりせきよりもかたくなり……

その時間は、2時間目、国語の授業中だった。担任の先生に当てられた子が、音読をしている声が、どこかから聞こえる。1段落読み終えると、今度は別の子が文を読み上げる。三者三様の音読を耳に流しながら、男は出口に向かって進んでいく。

途中で、上履きを脱いで、素足を晒している子を見かけた。

お日様が、真っ白に燃えてゆりのにおいをまき散らし、また雪をぎらぎら照らしました。

その時ばかりは、本来の目的も忘れて、足を止める。

上履きの踵は潰されていて、名前を見ることはできない。しかし、その子が女の子であることは、机の脇にかけられた、トートバッグやビニールの縄跳びの色を見れば明らかだった。

夏場はずっと、サンダルを履いて過ごしていたのだろうか。足の甲まで茶褐色にやけている。それだけに、紫外線を唯一免れた足裏の白さが際立つ。撥水された茶褐色に対して、しっとりとふやかしたような白。匂い立つような白。

そして、教室の床に直に触れることも厭わないらしいその足の裏には、塵や砂粒や糸屑のようなものが、ぱらぱらと付着いている。

————男は、ふらふらと近づいていく。

ちょっと見ていくだけだ、と、誰にともなく言い聞かせて。

どんな高性能のマクロレンズでも迫ることのできない世界がそこにはあった。ピクセル単位ではなく、細胞単位で組成された生の足が。手触りや、細部の色味、立てる音、におい、味。五感全てで感覚可能な、現実の小学生の、本物の足の裏が、そこにはあった。

そしてついに、男は手を触れて——舐めることさえできそうな距離にまで、近づいてしまった。

(ああ、あぁ……)

男は跪く。

自分でも、何をしているのか分からない。本当は他に考えなくちゃいけないことがあるような気がするのに、取り返しのつかないことになってしまうような予感はあるのに、何より、心に決めた優奈という相手がいるのに。目の前の足裏のことを考えただけで、何もかもがどうでも良くなってしまう。

まるで、習性まで虫になってしまったみたいに、メスの————何も知らない5年生の女の子のフェロモンに、勝手に行動を書き換えられていく。

そして、跪いたまま、抗いきれずに、男は舌をその足に伸ばした————。

じゃあ次、狭山さん。

「あ、はい。……二人は、森の近くまで来ました。大きなかしわの木は、枝もうずまるくらい立派なつららを下げて、」

————男の舌が、「狭山さん」と呼ばれたその女子児童の足に届くことはなかった。

担任の教師に指名されると、彼女は上履きを履き直し、起立して、続きの箇所から音読を始めた。

息が乱れ、汗が滝のように噴き出る。男はようやく、自分が命拾いをしたということに気づく。

「四郎が笑って言いました。きつねこんこん、きつねの子、およめがいらなきゃもちやろか。」

鎮まらない胸の鼓動。

それをよそに、音読は続く。

前の番の子までは、防災情報を伝える町内放送みたいに、風景と同化し、ずっと遠くに聞こえていた声が、この時だけばかに近くて、クリアで。

それが本当に、今自分の真上にいる彼女の声であるということを、文字通り声高に主張している。

「四郎はしんこ、かん子はかんこ、きびのだんごをおれやろか。」

足を舐めるのには失敗したはずなのに。

足を舐めようとした女の子の、音読の声を聞いているだけで。

なぜ自分はまだ、こんなにも興奮しているのだろう……。