不時着の痛みに、のたうち回っていたかった。
けれど、そんな余裕すらないということを、男は分かっていた。
はやく見つければ。取り返しがつかなくなる前に。
だって、自分の予想が正しければ、ここは————。
「優奈っ!どこだっ、どこにいるんだ!!優奈、ゆっ……」
盲目的に探し回っていると、何かにぶつかった。
不可思議なオブジェクトだった。————しかし、男は、それが何か知っている。
ソリッドな、赤いラバー。
流線形の先端。
薄汚れたビニール素材。
洗剤の香りの中に入り混じる、あの埃っぽいにおい。
そして、その持ち主は————。
(あ、あ。ああ……)
見上げた先に。
不沈の飛行戦艦を思わせるほどに大きな、優奈の左のおみ足があった。
それは、下駄箱の並ぶ昇降口の外から差し込む朝日に照らされながら、男の眼前に鎮座するオブジェクト————上履きに向かって、ゆっくりと舞い降りていく。
神々しくすらあるその光景に、男は息を呑む。宙を舞う微小なダストが朝日に輝き、天使の羽のように見える。
くるぶし丈の靴下の上からでも分かるほどにしなやかなつま先を、するり、と通して。
それから、上履きの口を左手の人差し指で広げて、すっぽりとはめ込むようにして、かかとを収める。
そんなことをしている場合ではないのに。何よりも優先すべき急務があるのに。
下駄箱の前で、上履きを履いているだけの優奈に、どうしようもなく見惚れてしまう。
右足に移ると、男はやっとの思いで首を振る。
「……優奈ちゃんっ!気づいて!ここだっ!!」
上履きのアウトソールに、拳を叩きつける。蓄積する痛みにも構わず、何度も、何度も。
けれど見上げると、優奈は気づくどころか、こちらを向いてすらいない。
やばいねー。
でしょ?
なんて言って、友達と笑い合っている。
そんな————。
絶望に、拳の力が抜ける。
そんな男に対しても、運命は慈悲を与えない。
「が、ほっ……、!」
公道を走る自動車の衝突より、重い一撃。
大人の男が全力で殴りつけても、小蝿が止まった程度の違和感も与えることができないのに。ほんの少し、子どもが無意識につま先を動かしただけで、胃酸が飛び散り、骨が悲鳴を上げる。
1000000分の1とは、あるいは1000000倍とは、そういう世界だった。
いこ。
うん。
弾き飛ばされ、潰れた空き缶のように地面に転がっていた男の耳に、2人の声が聞こえてきた。
その短いやりとりの意味を理解し、男の顔が青ざめる。
「え……あ、待って、行かないで、優奈っ、」
痛みのあまり、立ち上がることもできず、男は毛虫のように這って、まだその場に留まっていた優奈の足を目指した。
うそ、待って。だめだ、それだけは。それだけは!!
けれど、踵がおもむろに持ち上がり、やがてつま先が地面を離れ、上履きに包まれた優奈の足は、視界の外に消えていく。
ところで、ゆーなはどう?
なにが?
えー、ほらさあ……
数秒前に足蹴にした虫になど見向きもせず、優奈は先へ進んでいく。
ダンボールの中の子犬も、こんな風に元の飼い主の背中を見送るのだろうか。
「優奈……!おいっ、待って!優奈、優奈っ!!」
悪あがきでしかないと分かっていても、冷たい昇降口のタイルの上、這いずったまま優奈を追いすがる。
そうでもしていないと、おかしくなってしまいそうで。
無論、毛虫の速度で、人間の歩行に追いつけるはずもなく、距離はみるみるうちに離れていく。
2年前、優奈が自分の前に現れてからというもの、彼女のことを考えない日はなかった。あんなに必死に追い求めて、やっと優奈の1番近くにたどり着けたと思ったのに。こんなことがあっていいのかというほどに、一瞬で離れていく。
(優奈……ゆう、な……)
もう、話し声も聞き取れない。正面の階段を登っていく、2人の後ろ姿が見える。
天井の奥に消えていく優奈を眺めながら、男は、百貨店の中で親とはぐれてしまったことを悟った子どものように泣いていた。


