男の学生時代の記憶と相違なければ、下駄箱は普通、学年ごとに分かれているはずだった。
ならば、今男の目に映る脚は、全て優奈と同じ、小学5年生の児童のものということになる。
全部で何本あるのか、数える気も失せる。少なくとも男女合わせて10人は、下駄箱の前に屯しているように思えた。
10人?
1人でも、100倍大きくて。大人の渾身の抵抗を、1000000倍の指の力で軽々と押さえつけてしまう子どもたちが、10人もいて。その中で、生き残れと?
よー!
いって、なんだよっ。
お前今日さー……。
ずんっっ。
目の前に、靴が踏み下ろされる。
男もよく知っているメーカーの子供用シューズ。
大人から見れば、半分おもちゃのような靴。
そんなものが起こす風圧で、男は10歩分の距離まで吹き飛ばされる。
そして————あと少しでも靴がずれていたら、なす術もなく圧死していた。
(あ、あ、た、助け、)
ぱこんっ。
男の背後で、破裂音のような音がした。
咄嗟に振り返ると、
ぱこんっ。
もう1発。男の1歩前に、空っぽの上履きが落とされた。
軽く見積もっても、リムジンバスの重量を超えている。
そんなものが、予告もなく、空から落ちてくる世界。
なにそれ、かわいーっ!
いいなーっ。
いいでしょ、これねー……。
上履きの持ち主たちは、きゃっきゃと笑っていた。
自分の上履きで、ひとりの人間が命を落としかけたということも知らずに、笑っていた。
その事実に、狂いそうになる。
(に、逃げ、逃げっ……!)
ずんっっ。
逃げた先で、また踏み潰されそうになって。
びりっ。びりっ。
どこかから、マジックテープを剥がす音が聞こえてくる。
(いやだ、しぬ、やめっ……!)
ぱこんっ。
さらにまた逃げた先に、空っぽの上履きが降ってきて。
ずんっっ。
ぱこんっ。
ずんっっ。
あはは。
ずんっっ。
ぱこんっ、ぱこんっ。
ずんっっ。
びりっ。
ねーっ。
ずんっっ。
どかっ。
ばきっ。
ぱこんっ、ぱこんっ。
うっそぉー?マジー?
ずんっっ。
ぱこんっ。
びりっ。
………
……
逃げ惑い、踏まれかけて、吹き飛ばされて、蹴飛ばされて。
体力も、精神力も、とうに限界を迎えていた。それでも、立ち止まることは即ち死であるから、走り続けるしかなかった。
早く安全なところに行きたかった。けれど、どこを見ても脚、脚、脚で、方向感覚を失っていた。
小学生の脚という樹海の中で、遭難していた。
こういう状況を夢に見たことがないといえば嘘になる。
キャラクターでもなければ、モブでもない。1人1人が自立していて、それぞれの人間関係や家庭環境があって、小人などいるはずもない現実世界の中で、意思を持って生きている。そういう小学生たちが、よってたかって無意識に、自分を踏み潰そうとする。
それに。この無意識の蹂躙が、悪意なく誰かを傷つけてしまう、彼女たちのような年頃の子どもたちを象徴しているようで。
傍観者であったならば、これほどゾクゾクする状況もなかった。
けれど当事者である男は既に、欲情を起こす余地もないほどに、狂乱していた。その心は、やがて一つのことしか繰り返さなくなっていた。
(……元に戻りたい、元に戻りたい、元に戻りたい、元に……)
野の蟻として、一生こんな風に、人間の足から逃げ続けなければならない人生。
どれだけ受け入れたくなくてもそれは、男自身が自ら選択したことだった。


