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3話

まるで、男がその姿を目にするまで、ずっと待ってくれていたみたいに(そんなことは決してないのだが)、優奈はそれからすぐに割烹着を脱いで、自席へと戻っていった。

もう少しだけこの余韻に浸っていたかったが、見失わないよう、男はすぐにその後を追う。それでも歩幅の違いから、ようやく追いついたのは、総勢約30名の子どもたちによるいただきますの挨拶を聞いてから、10分経っただろうかという頃。

席の近い子同士が机を寄せ合って食べるというスタイルは、今も昔も変わらないらしい。教室には4人ずつ、計8つの島が出来上がる。

そのうちの、もっとも黒板側の入り口に近い島に、優奈はいた。

机の下は、今までに何度も通ってきた。けれど4つ集めただけに、その下に落ちる影も、1つのときよりずっと濃く、深い。

教室という活気に満ち溢れた地に伏在する、アンダーグラウンド。

その中にひしめく、何も知らない地上の子どもたちの足。

優奈の足も、漏れなくその一部だった。

手始めに、男は優奈の履く上履きを、力一杯に殴打する。

けれど、朝の時の同じで、どれだけ続けても暖簾に腕押しだった。

それも、十分に分かりきっていたこと。男にはもう一つの策があった。

(……優奈、もうすぐキミに会える。)

つま先のラバーに、男はそっとキスをする。

苦い。蓄積された、優奈の汚れの味。

その味を噛み締めて、上履きに背を向ける。

もう一つの策とは、机の脇にかけられた手提げ袋をよじ登っていくこと。机の上に登頂することができれば、いくら小さいといえど、優奈ならばきっと気づいてくれるはずだった。

麓に着いて、男はその頂を見上げる。ざっと見積もって5、60mはある。生前に勤めていたオフィスビルにも比肩する高さ。ボルダリングの経験すらない男にとって、それは無謀な挑戦にも思えた。

だが、男は何度も失敗しながら、地上からの距離を少しずつ伸ばしていく。手提げ袋は、あの朝の上履き入れと同じようにキルトの生地で仕立てられていて、ことのほか掴みやすくなっていたし、縮んだ分、生前よりも体が軽くなっているというのもあった。

だが1番の要因は、ここへきての男の目を見張るような執念だっただろう。

優奈に会いたい。ただその一心だけで、疲労や痛み、己の運動能力の限界を凌駕していた。

ごちそうさまでした、の大合唱が、不意に男の鼓膜を揺るがす。危うく手を離しかけたが、すぐに体勢を立て直し、安堵の息をつく。

崖登りも、中腹まで来た。顔を上げると、手提げ袋の口から、棒状のものが伸びているのが見える。あれは、優奈のリコーダーのケースだろうか。何にせよ、あのてっぺんまで登れば、机の上に降り立つことができそうだった。

このまま行けば、昼休みの終わりまでには優奈に会える。

長く険しい旅の終わりが見え、褌を締め直した、その時だった。

がたんっ。

————え?

突然、世界がまるごと揺さぶられて。

気づいたら、崖から手が離れていた。

既視感のある落下。そういえば、朝の昇降口でも、このくらいの高さから落ちたような気がする。

だが、暗闇からいきなり視界が開けたあの時とは違って、落ちる前と落ちる時で、見えている景色が地続きになっている。だから、さっきまで不動の景色だったはずの机が、優奈やその他の児童たちによって、次々と物として移動させられていくのが、落ちていく中ではっきりと認識できた。

自分の迂闊さを後悔しても、もう遅かった。

掃除の時間の始まりを告げる放送委員の児童の声が、無慈悲にも響き渡った。