ちさとに拾われて、もう何週間経っただろう。
男の精神は崩壊しきって、もはや形も残っていなかった。
何一つ勝てない。
そんなはずがないと思いたかった。けれど、どれだけ血眼になって探しても、30年生きてきた自分が、たった10年しか生きていない女の子に勝っている点が、どこにも見つからない。どこにも。
頭脳も、精神も、地位も、幸福も、人望も————そして、今では力でさえも。ちさとに、何一つ及ばない。
暗く、深い、海の底へ沈んでいくような感覚。
その中で、男は考える。
自分の30年の人生には、一体なんの意味があったのだろう。
何のために生まれ、何のために生きてきて、何のために、今ここに存在しているのだろう。
何の目標もなく、何の努力もせず、何も為せず、守るべきものもなく、誰にも慕われず、容姿は汚く、精神は幼いままで、子どもに欲情して。
こんな自分が、生きている価値なんて、あるのだろうか。
——ありますよ。
絶望の深淵で。
ちさとの声が聞こえた気がした。
耳を溶かす、甘い甘い囁き声が。
——ほら、あるじゃないですか……お兄さんにしかできないこと。
神さまの声に聞こえた。
声のする方に向かって泳いでいく。
その先に、光が見える。
眩さに目を覆いながら、男は暗闇の出口に向かっていく————。
真っ白な光に包まれ、やがて、視界が晴れていく。
気がつけばそこは、もうすっかり見慣れてしまった、ちさとの机の上で。
いつものように、正面にはちさとが座っていて————組んだ足を机に乗せ、男の方に伸ばしていた。
視界の隅に、ちさとの脱ぎ捨てたニーソックスがあった。
にこり。とちさとが笑うのが見えた。
ああ、そうだ。
ふらふらと歩き出す。
初めて見る、ちさとの生の足の裏。
毎日のスキンケアを欠かさない綺麗好きな彼女の足の裏には、あの日教室で見た「狭山さん」のそれのように、チリやゴミなど付着していなかった。
けれど————朝の6時の登校から、夜の8時の塾の終わり。およそ14時間の拘束を耐え抜いた足の裏は、解放の悦びに火照っている。
今、やっと分かった。
踵を下にして立っていたちさとの足が、跳ね橋が下りるように、ゆっくりと傾いていく。
それまで手の届かない高みにあった足の小指が、今、男の目の前に降り立つ。
腰から上のちさとを、あのアロマ瓶の中からいつも眺めていた。何もしなければ、白の服がよく似合う、清楚で可憐で儚げな、小学5年生の少女だった。
そんな彼女の足指に、顔を寄せる。
熱気を伴った濃密な汗の臭いが、男の鼻腔と、脳を灼く。
スズランのような清楚な見た目をしているのに。
その香りは、クロバエたちを誘惑する、ラフレシアのように臭かった。
自分は、この子の奴隷になるために、生まれてきたんだ————。
男もまた、クロバエのようにその臭いに惑わされ————ちさとの足を舐める。
しょっぱくて、手の指よりも、つんとした酸味があった。
その芳醇な味わいの虜にされ、男は折り畳まれた小指の、ほんのわずかな隙間をこじ開けるようにして、潜っていく。そして、むせ返りながら、足の指の間の、指紋の溝にじんわりと滲んだ汗を舐める。場所によっては、吸って、ごくごくと飲むことさえできた。それほどまでに、足の小指の間には、汗が豊富に溜まっていた。その上、飲んでも飲んでも、新しい汗が湧き流れた。
最後の砦だったはずの自制心は、たった1人の子どもの遊びのために、砂場のお城のように崩落していく。
サウナのような暑さに、全身が蒸されて、汗が吹き出る。抜け落ちた水分と塩分を、ちさとの汗を飲んで補給する。また汗が流れて、また飲んで。
そこはまさに、永久機関だった。
よしんば脱出を果たしたとしても、忘れることができずに、また足を運んでしまう。男の存在さえその一部とした、永久機関だった。


