「ゆーなもやってみなよ!」
名も知らぬ茶髪の子の、きっと何気なく放ったであろうそのひとことが、ぼくの心をざわつかせる。
「え、私はいいよ……」
背後から聞こえる優奈の声。
ちさとの命も忘れ、ぼくは舌の動きを止める。
こうなることを、なぜ予想していなかったのだろう。
優奈に、指を舐めさせられる————?
「……んー。いや、ゆーな、ちょっとやってみて」
「えーっ、ちさとまで……?」
女子たちが軽率に外堀を埋めていくのを、黙って眺めていることしかできない。
ぼくにとっても、そしておそらくは優奈にとっても、大きな分岐点が訪れようとしている。
ぼくという踏み絵を前にして、優奈は、どちらの道を選ぶのか。
全ては、彼女の選択に委ねられる。
優奈は、2人の友達を見て、自分の右の手を見て——そして、ぼくを見た。
遠慮にも、戸惑いにも、憐憫にも取れるような表情で、僕を見て。それから。
開いていた右手の形を、おもむろに変えていく。
(……うそ、だよね?優奈……?)
優奈だって、分かっているはずだ。
本心はどうだったか分からない。それでも、表面上はいつだって、小さくなった僕のことを、大人として、人間として尊重してくれた彼女であるからこそ、分かっているはずだった。
————そんなことをすれば、ぼくたちはもう、2度と元の関係には戻れないということを。
人差し指が、ゆっくりと舞い降り、ぼくの前に着陸する。
(…………!な……なに、この指……?どうしてぼくの前に置いたの?ちがうよね?何か、別の理由があるんでしょ?ねえっ……!?)
問いかけても、指は何も答えてくれない。
鼓動が早まり、息が上がっていく。込み上げる不安に。そして、間近で見る、優奈の人差し指の美しさに。
ぼくは彼女の指に、ずっと前から恋していた。
その扇情的な指頭の輪郭の、艶光りするグロテスクな指紋の、温かな血潮を透かす指の腹の虜だった。
つまり、ぼくは優奈にそれを命じられたら、きっと従わずにはいられない。
すがるように見上げる。
優奈がぼくに、何かを告げようとしていた。
(や、やめ、て……)
やめて?
本当にそう思っているなら、ぼくは逃げ出せばよかったのだ。ちさとみたいに、ぼくを恐怖で支配する趣味は、優奈には無いはずなのだから。
結局ぼくは何も変わっていない。事故を装って、優奈の荷物に紛れたあの日から。
違うのに。ぼくはこんなの、望んでいないのに————そう言いながら、震えるぼくの両手は、優奈の指のあたたかな熱を、吸い付くようなその手触りを、言われる前から感じている。
優奈は、歳の割に礼儀正しい子だった。
それでいて大人のように、小慣れているわけでもなかった。
「あ、——さん。おはようございます」
「す、すみません。つい話に夢中になっちゃって……」
「そんな、いいんですか?こんなの、もらっちゃって……」
「いえいえ、ゼンゼンそんな……ありがとうございます」
「ほんとにごめんなさいっ、心菜がまた失礼なことをっ」
「それは、だって、いくら小さくたって、年上の方ですから……」
「ごめんなさい、こんなのしか用意できなくて……」
「……それじゃあ、おやすみなさい」
ぼくは優奈の、そんなところを愛して、いた。
そして、今。
優奈は唇を開いた。
「——お手。」


